立佞武多

先日紹介(id:ruger:20040628)した、五所川原の虫送りで触れた立佞武多についてです。東北在住の方なら広くご存知だと思いますが、紹介かただが、興味深い記事だったもので。出典は東奥日報の社説、2001年ですからえらい旧聞です。長いのですが全般に興味がありますので、転載しました。

五所川原立佞武多の出陣だ
 弘前ねぷた、青森ねぶたに続いて、五所川原立佞武多(たちねぷた)が四日、出陣した。
 五所川原立佞武多は一九九六年、住民の手によって約九十年ぶりに復活。九八年からは五所川原市が支援を決め、今や西北五地方を代表する夏祭りとなった。
 勇壮・幽玄な弘前ねぷた、絢爛(けんらん)たる青森ねぶたに対して、五所川原立侫武多の魅力は、巨大さにある。高さ二十二メートル、天を突くさまは、見る者を圧倒する。 かつて「虫おくりと火まつり」でねぷたを運行していたころは五十万人台だった人出が、立侫武多の出陣によって百万人の大台を突破するまでになった。五所川原の立侫武多は、祭りによる地域おこしの好例といえる。
 五所川原市では明治から大正にかけて高さ十一間から十二間(約二十メートル)もの巨大なねぷたが作られていた。その大きさゆえに、隣りの金木町からもねぷたの勇姿が見えたと伝えられている。
 その巨大なねぷたが廃れたのは電気の普及によるというから面白い。大正の初めに電気が普及し、電線が張り巡らされると、高いねぷたは運行できなくなった。
 立侫武多復活のきっかけとなったのは、九三年に五所川原市の旧家で発見された、明治・大正期のものとみられる高さ九・八メートルもの台座の設計図だった。
 九六年には市民のボランティアによる「立侫武多復元の会」が発足。ねぷたの製作に乗り出す。
 九八年には市が財政面での援助を決定。立侫武多はボランティアの運営から官民挙げての祭りへと変化。十二月に県が東京ドームで開催した「活彩あおもり大祭典」では、その大きさが来場者の度肝を抜き、評判を取った。
 ねぶただけでなく、商業都市としての五所川原の位置も、青森と弘前に押されがちとなっていたが、立侫武多は、五所川原市民に誇りと自信を与えたともいえよう。
 新しい祭りだけに、すべてはこれから。五所川原にこれだけの人が集まったのは見たことがない、と地元の人を驚かせながら、祭りが終わった後にはさっと引き上げてしまい何も残らない。祭りが一過性に終わっているからだ。
 県内外から多くの人が訪れながら、ほとんどが日帰りで、地元に金が落ちない、経済的な波及効果の少なさも指摘されている。
 今年、初めて立侫武多が大手旅行代理店の東北夏祭りツアーに組み込まれ、九州から観光客が訪れた。東北の夏祭りといえば青森ねぶたに弘前ねぷた、秋田竿燈(かんとう)、仙台七夕、盛岡さんさ踊り山形花笠まつりが六大祭りと呼ばれてきたが、これに立侫武多が加わっての七大祭りになるのも夢ではない。
 観光客の受入れには、夜の立侫武多だけでなく昼の広域的な観光ルートづくり、また立侫武多見物に際しては桟敷席の増設が望まれる。桟敷席はロータリーの西側に百五十席を設けるが、全国から観光客を受け入れるとなると、いかにも手狭。現在の運行ルートの変更を含め、抜本的な見直しが求められている。
 また立侫武多は収容施設の関係などもあり、現状では三台しか運行できず、いずれ飽きがくる。リピーターを増やすためには見物するだけの祭りから、参加する体験型の祭りへの工夫も必要となるだろう。
 五所川原の立侫武多は、青森のねぶたのような街を挙げての熱狂はないが、カラスはねともいない。弘前ねぷたのような伝統はないが、復活した経緯を考えると、明治期の先人が残してくれた宝物ともいえる。立侫武多を復活させた”じょっぱり精神”は、自由な発想で祭りの発展に向かえるはずだ。そしてそれが、街づくりにつながることを期待したい。
東奥日報(2001年8月5日(日) )
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2001/sha20010805.html

立侫武多は青森などのねぶたが横長に対して、上に伸びた形状をしており、非常に見栄えのするねぶたです。が、それが故に電線に引っ掛かるため廃れた行事でもあります。復活は比較的最近のことのようですが、いまや100万人の人手が見込める行事となり、観光や地域の誇りをもたらすものであるということです。
復活の機会が、明治時代の設計図が発見されたため、というのは知りませんでした。こうしたちょっとしたきっかけが祭りの復活をもたらすことができるという点でまず興味を持ちました。
そして復活からその後の展開としてまさに地域振興のシンボルとして位置づけられ、また期待されていることが伺えます。なので、虫送りは時期を早めて、というような動きになるのですね。また、後段にリピーターを増やすための参加型の工夫とか、それって、だんだん行事の目的からはずれていっているような気がします。
こうなると「祭り」ってなに?、という気になりますが、信仰と切り離し、地域社会の統合性として「祭り」を考えるならば、まさに適役の行事なのかもしれません。
自分も、この祭りがひそやかに五所川原に伝えられてきた行事とばかり思っていたので、新たな発見だったですが、それと同時に今後の展開もまた気にしていきたいと思わせられる行事であることが発見できました。