保呂羽神社祭礼

ruger2006-04-26

 昨日に引き続き、本日も志津川へ。別の神社の祭礼です。なかなか複雑な祭礼でどこまで説明できますか、自信がありませんが…
 保呂羽神社がある保呂羽山はその頂上部が旧志津川町*1を構成していた旧志津川町*2、旧戸倉村、旧入谷村の3町村の境となっている標高300mほどの山です。海からみると独立峯のように目立つ山でまさに山岳信仰の対象になっていたことが想像できる山となります。実際、この山の戸倉側には荒町という集落があり複数の修験が近世に活動していて、一つの拠点となっていたことがわかっています。
 また保呂羽神社の脇には薬師堂があったということから、いわゆるハヤマの一つとしてとらえられる場所でもあります。この薬師様、後に志津川の町に降り、現在上山八幡神社に連なっているとのこと*3。そのため代々八幡神社宮司家(旧修験)が保呂羽神社にも奉職しています。
 祭礼は、この八幡神社に常置されている御輿を前日際*4に保呂羽神社に上げ、例祭日に山頂で神事を行った後、里に下ろし志津川の町を巡航した後八幡神社に納める行事となります。社地が移動し、かつ町の位置も移動している*5ことから空間的な分析は難しいのですが、春に奥山である保呂羽山から里宮である八幡神社に神が降りる祭礼と理解することができると思います。
 更に特徴的なのは祭に関わる人たちです。保呂羽神社の氏子は入大船と保呂毛という二つの集落からなっていますが、この集落、ともに保呂羽山麓ではありますが沢違いの集落で、入大船が御輿を持ち上げる集落となっていて、山頂での神事まで御輿を守る役となります。そして保呂毛集落が御輿を下ろし八幡神社まで運ぶ集落になり、役割が分かれています。このあたり、どういう経緯で役割が分かれたのか気になるところです。
 上記のように祭礼そのものは町中を御輿が巡航するようにかなり規模の大きなものなので、歴史的な変遷、空間的な変遷等、諸々の糸をほどいていかないと祭礼自体の構造を理解するのは難しいような気がしますが。その分非常に興味深い祭礼でもあります。
(本日の運転距離 160km)

*1:先日の合併で現在は南三陸町となっています

*2:表現が難しい!

*3:この部分、改めて調べ直さないといけません。八幡神社が保呂羽神社の里宮的な場所にもともとあったということで、それが移転し現在地に移ったというのは間違いないようですが

*4:今年は4月25日

*5:現在の志津川の町は江戸期に埋め立てた場所が多いとのこと