神仏習合の世界

ruger2006-03-30

 昨日に引き続き庄内平野鳥海山の麓に来ています。
 写真は大物忌神社蕨岡口ノ宮の旧参道です。なかなかの階段が尾根までのびています。現在は山門をくぐると目の前に拝殿がありますが、昭和20年代までは、この階段を上った尾根に拝殿があり、しかも本殿のない作りだったそうです。で、拝殿奥の扉を開けるとそのまま鳥海山が拝めるかたちとなっており、まさにご神体が山という社殿だったとのこと。まさに山岳信仰の神社と言うことが感じさせる場所だったようです。
 で、この口の宮、名称からも感じられるように、大物忌神社は鳥海山の山頂の神社で、口の宮は里宮を指します。で、この里宮が二つあり、吹浦口と蕨岡口となります。両社とも立派な社を持ち、出羽国一宮となっているのですが、宮司はお一人が勤めています。伺うと、元来山形側の鳥海山登坂口として、吹浦と蕨岡があり、それぞれに多くの坊があり、修験が活動していたとのこと。明治の神仏分離の際、主要な参拝口であった蕨岡が仏教か神道かでもめている間に、吹浦が神道化し、国幣社となったことから、鳥海山の中心が吹浦口と認定される結果となりました。これに慌てた蕨岡口も遅れて神道化し、正当性を巡り吹浦口と争うこととなり、その結果、両者は山頂大物忌神社の里宮として一体のものとし、宮司は一人、例祭は両者を隔年で行うということになったとのこと。
 羽黒山でも神仏分離の際に諸処の問題が生じ、多くの仏像が失われたことが知られていますが、神道を選択した中でもこうした話があったのですね。しかし、この神仏分離の流れ、特に修験を考える上では避けて通れないもので、本などを読んでいると頭では理解できるのですが、近世以前の姿を考えるときにはなかなかイメージがつかめないのですよね。今回、まさにそうした姿を伝える社寺を歩いて、話を伺い、モノを拝見して、少し実感できたような気がします。
 この過程、ちゃんと調査すると興味深い研究になるような気がしますが、あまりにもどろどろし過ぎて、問題にもなるような。現在の人たちは、”昔の話”として、笑いながら教えて頂けるのですが、伺うと、その先代くらいの人たちですと、冗談ではすまされない恨み言を含めて聞いてきた話だったようですね。
 残念だったのは、この二日間、結局鳥海山を拝めなかったことです。きっと、鳥海山を見ながらこの話を伺うと、また違った感想を持ったのかもしれません。なにはともあれ充実の調査となりました。
(本日の移動距離 180km)