採集

って虫取りではなく…
 民俗の調査で、ある話を聞いたことを”採集”と表現します。ちょっと内向きの発言としては、私は人類学出身なので、この勉強を始めてすぐ出席した研究会で、ごく自然に「○○で私が採集した話に…」という表現を話す人を目にしたときにものすごい違和感を感じるとともに、ものすごく”かっこいい言葉”という印象を持ちました。テクニカルタームとしてですね。
 で、本日、職場のある公的な文章に”民俗の採集を目的に”と書いたところ、つっこまれて、この初心を思い出した次第です。というのも、民俗を採集するではなくて、民俗を調査するだろう、というのです。
 採集にかぎらず、民俗の研究者が連れだって旅行に行くことを”採訪旅行”などと表現します。で、10年以上この世界にて、私なりには民俗って採集するイメージができつつあって、ある種よい言葉という考えに至っています。ただ、これって他分野の人にとって見ると、それって拾うという感じなんですかね〜、私としては調査をすることで、普通では見つからない”民俗”を採集するということを意味しているつもりなのですが。ようするに調査の結果というか、修練した人間によって調査することよって始めて見いだされるものというニュアンスが感じられるか、ということですね。
 で、この言葉をつきつめると”民俗”とはなんぞや、ということにつながるというか。民俗の研究者が悩みつつ持っている民俗像と、同業他分野などの人が持つ民俗像がかならずしも重なっておらず、それが民俗の”調査”と”採集”という部分に現れているというか。
 民俗に対する批判として時間の問題はよく取り上げられます。いやその通りなのですが、だって話者は”昔”としかいわないし。で、それを取り上げて批判するのは、まぁよいですし、努力不足を含めてその通りな部分もあるのですが、民俗を発見してきた経緯を考えれば、その批判は一銭にもならない批判というか。だって、そういう時間軸に縛られてきたから見逃してきたものが民俗なんだから。
 もちろん、だからとって構造主義的な、もしくは基層文化が民俗というのも違いますが。その部分を民俗学もうまく表現し切れていないジレンマもあるので、大きな口をたたけないのですが、民俗が誰でも知っている(いた)知識をあつかうものという見方には激しく反論したいところがあります。
 だから、”採集”なんですけど。まぁ、自己満足ですが。
 あぁ、少し酔っぱらって文章を書いているので、まったくまとまりがないですね。ただ、民俗という世界で生きていると、たまにはき出したくなる部分があるということで、流してやってください。