日本的スローフード雑感(その1)

先の記事(id:ruger:20040512)で、スローフード運動についてちょっと触れました。また、本日の新聞にスローフィッシュに気仙沼市が出品(http://www.sanriku-kahoku.com/news/2004_06/k/040605k-food.html)という記事が見たので、またまた考えてしまいました。
「地元の食材」「伝統的な食事」というのは相反する印象だったうえに、日本的な展開として触れた「地産地消」「食材王国」等々の単語と、世界的な動きとして紹介される「スローフード」の関わりが今ひとつピンときません。
で、まずJA埼玉県中央のページからスローフード運動とは、

 手頃で、手早く、安価で、食べることができる「ファーストフード」が定着していますが、その影響で、食生活の急激な変化が起こり、郷土料理等の土地や家庭の“味”が無くなってしまう状況に陥ってしまいました。それに対し、その郷土料理等の多様な味の世界を大切にしようという「スローフード運動」が広がりつつあります。スローフード運動は①伝統料理を守る②質の良い食材を提供する生産者を守る③子供達を含めた消費者に味の教育をすすめるという3つの考えを基本に活動されています。
 「スローフード」と近い意味で使われている言葉に「地産地消」があげられます。これは、地元産が無ければ県内産それでもなければ国内産となるべく住んでいる場所に近い物を食べようという考えで、「地元のものしか食べてはいけない」という運動ではなく、「地元の良い食材を見つけよう」という内容の運動です。この中には、住んでいる土地でとれた農産物を食べるのが一番体にいいという意味も含まれています。
 輸入の増加により、量販店では、外国産が出回っています。いくら流通の技術が上がろうとも、外国で収穫して量 販店に並ぶまで、1〜2週間はかかっているはずです。それは、農産物といえども本当に体に良い物なのでしょうか?
 私たち農業団体は、消費者の皆さんの健康のために安全で、安心して食事を楽しんでほしいという考えから“スローフード”・“地産地消”運動を進めます。この2つの運動を御理解のうえ、日常の食卓で試してみてはいかがでしょうか?
http://www.saitama-ja.net/notebook/notebook_5.html

これをみると、スローフードが、ある種確固たる食事の形態(朝食は御飯と野菜の味噌汁、付け合わせはお浸し、昼食は御飯と味噌汁のみ、夕食はそれに煮物と魚、というように食事の内容が基本的に決まっているということ)を思い出して、守ろう、というように読めます。これが「地域主義」、つまりおらが地方が一番、という思想と結びつくのだと思います(朝食に納豆を食べるなんて、なんて下品なやつら(と私は嫁に対して思うことはおいておき)、といった考え方でしょう)。そして、そうした食事の形態を思い出し、子どもたちに伝えるということがこの運動だと思います。
ところが、先の引用の後半を見ると、「地産地消」とは地域で生産したものをなるべく食べましょう、という運動になっています。なので、宮城県産のバジルを使った料理は積極的に食べましょう、広めましょうになる。引用には近い意味として「地産地消」があるとあるけど、全然別のものですよね。これがセットとして流通していることが問題ではないのでしょうか。
たぶん
  地域で作る=小商品=地域の特色 
という構図が描かれて、
  特色=伝統≒地域の歴史 
と結びついているのでしょう。
こうした流れの中で、冠婚葬祭に代表されるハレの日の食事、と日常の決まったケの日の食事が混在し(一応区分けされてはいますが、私の印象では便宜上と感じられます)、更に歴史的に必ずしも一体とは言い切れない県などを単位にした地域の食事が紹介される現状は、地域の伝統文化の掘り起こしといっても、民俗を研究する人間にとっては??、というように感じられます。
とはいえ、原理的なスローフードの追求は、ちょっと書いた朝食が毎日御飯と納豆と味噌汁のみ、という生活を求めることになります。ちょっと年輩の方なら、そうした食生活の方を実践していて問題も感じないという方もいらっしゃると思います。しかし、私を振り返れば、そういう生活はたぶん、無理だろうな、と感じてしまいます。
民俗を調べていると、地域の「伝統的」な食生活というものが見えてきます。一方で地域の産物というものも見えてきます。しかし、この両者は密接なようでけっこう別物です。自宅の畑でとれた野菜を利用して食事をする一方で、その日の市況をみながら出荷用の作物の収穫を行う農家の姿は、決して「地域」という狭い空間の中に閉じこもっているわけではないことがわかります。また、宮城の食材としてあげられる「フカヒレ」にしても、その発祥は、江戸時代に中国向けの外貨獲得のために生産がはじめられたものであり、あくまでも世界を見据えた商品であり、自家消費などとんでもないものだったのです。
結局、そうした「伝統」をとっぱらって、新たに「伝統」を創り周知させる運動、それが現在の「地産地消」と結びついて普及する、日本におけるスローフード運動の姿なのではないでしょうか(この点は小久保厚郎氏のふるさとの食の危うさが参考になります)。
私としては、基本的に地産地消の運動そのものは、おもしろいと思っています。こうした運動を通じて集められた情報が、消費者にとってよりおいしい今晩の料理の参考になればと思いますし、生産者にとっても、差異化のはかれる産物を生み出すデータベースになればより良いのかなと思います。そうした新しい情報が手に入るきっかけとして、こうした運動が進めばよいのかな。
ただ、伝統を操作するということそのものは、また興味深い動きとして注目はしています。まさにフォークロアリズム的な動きであるように思います。
いずれにしても基本は、おいしい食事を毎日食べたい、ということなんでしょうから。
えらく長くなってしまったので、ひとまずこれにて。