イネが…

ruger2008-05-22

 先週田植えをしたイネですが、火曜日の大雨を経て、様子を見に行くと…
 先端が枯れ始めています。どうも植え替えてやらねばならないようですが。米作りは、なかなか難しいですね。


 その昔、山梨の山奥で調査をしていたときこんな話を聞きました。
 標高1000m近い山の斜面に広がるその集落は当然ながら田がありませんでした。戦後、甲府昭和という甲府盆地の開拓地が作られると*1、集落の人はそこに土地を求め、田地を持つことが出来ました。集落からは現在の道でも1時間以上かかる場所です。
 集落の人は、そこに「コヤ」を建てて農作業の時期になると短期の住み込みをしながら農作業をしました。通常は、春に田植えに行き、その後集落に戻って日常の生活を送り、秋になるとまたコヤに住みながら稲刈り、脱穀調整までをする、という生活です。これをステヅクリといって、本当に植えっぱなしの農業です。「もちろん収量は少ないけど、それでも食べる分は作れたし、米作りは楽だ」*2とのこと。


 不幸にして、私の20年近い調査経験の中で、これまで稲作に力を入れている集落の調査をほとんどしたことがなく*3、この話がある意味、私の稲作観を作っていました。もちろん知識として水の管理とかはあるのですが。ということで、テンバコを使った稲作り、(私の)想像以上に管理が大変そうです。


 さて、先ほどの話の後日譚を紹介すると、
 農地を手に入れた時は、集落での生活が維持されていましたが、当然ながら昭和の終わり頃になると山中での生活もなかなか厳しくなってきました。また子どもの進学の問題もあります*4。そのため、若い人は、子どもの高校進学を機にコヤでの生活を選択するようになりました。コヤを修理し、更には建て直し常時住めるようにしての生活です。仕事もコヤから通える場所を選びます。そう、集落は年寄りのみが残る過疎の状態になったわけですね。ただし、調査時に集落に残っていた人の表現では、彼らはあくまでも(仮設の)コヤに行っているのであって、集落を出て家を構えたわけではない、というニュアンスで話をします。確かに、年に数回ある祭礼などの機会になると、集落の多くの家に灯がともり、祭りに参加するとともに、本宅の整備をしているようです。
 実態は経済的にも法的にも集落を出てしまいつつも、集落が維持される*5、というなかなか興味深い話で、個人的にはこのご時世にいろいろ考える一つの指針を与えてくれる話だと思っています。

*1:中巨摩郡昭和町の開拓地のようです。購入の経緯までは調べませんでした

*2:この部分、ノートが手元にないので、こんなニュアンスの話です

*3:あっても、短期の調査な上に担当違いだったため話を聞いていない

*4:そこには15年ほど前に調査に行っていましたが、その時点で、バス停から山を1時間徒歩で登らないといけない集落でした。

*5:少なくともその時点では